気づきのチャンス
先々週末は国体予選が行われました。中学生を交えた11名のシングルス予選ですがほぼ本校同士の対決になりました。ナショナルメンバーの2人は決勝まで残り体力的な問題もあり決勝は不戦勝で終わりました。翌日はダブルスが行われ、ナショナルの二人は優勝で終わりました。この2人に関しては順当といったところでしょうか。しかし、去年の国体メンバーであった一人がベスト8に終わったためメンバーに入ることは出来ません。厳しいですが仕方のないことです。それにしても2年生の成長ぶりが目に見えてきているので夏以降の新チームでの活躍も期待されます。部内での競争が多いため、強い弱いで序列のようなものが出来てしまうことは仕方のないことだとは思います。しかし、強いからといっていわゆる「天狗」のような態度を取ってしまう者もちらほら見えてくると残念な気分で一杯になります。
「ペラペラと自分の手柄を謳いたがる人間はすぐに沈む」 「勝負師伝説 哲也」から房州さんの一言。謙虚さを忘れての行動は周りからの応援もなくなります。応援されない人は勝ち続けないと信用されません。 練習を見ていても、最近の大阪総合バドミントン大会という大人が混じっての対戦で負け、何を学んだのかということが疑問に思える生徒もいます。エラーから目を背け、自分の居場所の確保のためだけに自己アピールする。そういう生徒も今までいましたが、結局卒業後もプレーも人間性も伸びずに姿が見えなくなっています(どこかで頑張っていることを期待していますが)。「引退」が決まるととたんに欲に汚染されて下手になる生徒、逆にそれを期に勉強で奮起している生徒、生徒の根本の価値観を変えることは到底出来るはずもなく、本人の「気づき」しかありません。 どこでその「気づきのチャンス」に気づくか...。もはやこれには運や縁が強く作用しているとしか思えないようなことも多々感じます。人は見たいものだけを見、聞きたいものだけを聞くためです。嫌なものからは離れようとするのが本能です。最近のCMで「バイ菌」を駆除するものなどを見ていると、如何に人が「汚い物」から離れよう離れようとしているのかがあからさまです。考えを広げれば「死」というものから離れよう離れようとしているようにしか思えません。人は必ず死ぬし、それが明日でないとは言い切れないのに。 自然から離れれば離れるほど人間は衰退していくでしょう。かといってゴミを散らかし放題にするというのは違います。ただ、過剰に過敏に「嫌な物」を切り離す思考は成長を妨げるということです。 バドミントンでも嫌な「エラー」や「負け」から目を背け、逃げれば上手くなるはずがありません。それに向き合うことは最初は辛いかもしれませんが、それに挑戦し克服しようと試みることは素晴らしい成果となって後々返ってくると思います(願います)。 映画「春を背負って」を観ましたが、中で 「自分の足で歩いた距離だけが、本物の宝になるんですね」 という台詞があります。短い人生、死への残された時間をどのくらい自分の足で歩けるか。まだ若干10代の若者がこのような話に聞く耳を持たないかもしれません。「これでは本当にやばい!」という「観念的な死」を経験しないと気づけないのかもしれません。その経験ももしかすると何か大きな力から「与えられるべきタイミングで与えられる」のかもしれないと考えると今自分がなすべきことは何だろうと考えざるを得ません。 |
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