青空
夏休みも終わり授業再開です。週末には早くも2年生以下の全国大会、ジュニアオリンピックが始まります。この大会での成績によってはジュニアナショナル選考会や合宿に推薦されます。厳しいですが自分の目標に向かって頑張ってほしいと思っています。私は引率したいのですが学校業務のため行けません。少し残念です。
色々なゲームを見ながら少しずつヒントをもらっては実践しています。最初はうまくいっても、そのうち上手くやりたいという気持ちが強くなるとぎこちなくなってきます。そのプレーをイメージだけでやっている時は自己から離れられているのですが、上手くやりたいという結果に意識が向かっている時は自己のフォームでやるので違和感が出てしまいます。 「自己を離れる」と本来の動きが出てくるとよくいわれます。潜在意識にアクセスして身体が持っている身体感覚に任せる。しかし、「身体感覚に任せられている」という“考え”が出てきたとたんに自己が戻ってくる。無意識だと自分がやっている感じがなくて達成感がない。やっぱり自分がやっているようなやった感がないと自分の存在が確認できなくて不安になってくる。結果に拘っているようで、実はみな自己の存在への不安感がある。私も然り。父が他界し、そのことを最近はさらによく考えます。 自分の存在確認。最初は褒められている、見守られている、勝ったという結果などからそれを確認し、次第に権力や名誉、お金に執着しその確認をする。しかし、一時的に確認できても、次第にその確認要求が強くなってくる。 天外伺朗氏は母親から引き離された「バーストラウマ」が誰にでもあり、それを克服しない限りこの問題は解決しないと著書「問題解決のための瞑想法」より話されています。色々な瞑想方法を提案されており、やはりすべての問題は周りにあるようで実は自分自身の中にあると言われています。しかし、いくら瞑想しても自己が自己を見つめるならば進歩はなかなか出来ません。自己が落ちたときを感じなければやはりダメだそうです。その辺りの方法を提案されているのがワンダルマ仏教僧の山下良道氏。ポッドキャストで話をされているのを聞いてはいましたがその著書「青空としての私」にようやく書店で出会い読んでいます。自分の感覚に集中することから次の慈悲の瞑想に入る。これは両氏に共通していることでありやはりこの辺りがすべての問題可決に至る入り口なのかもしれないと考えています。 「私」は例えるならば「雲」ではなく「青空」である 機会があれば一法庵の山下良道氏の話を聞きたいとも考えています。近畿でやることもあるので...実現できるかな〜.....。 |