チームを変えるもまず掃除!
春が一気の遠のき、梅雨入りするようなしないような夏がもうやって来ました。体育館では33度となかなか高い室温です。練習では暑さのため少し気分が優れなくなる生徒も出てきてヒヤヒヤしてます。すぐに涼しいところで休養を取らせたので大事には至らずほっとしています。暑さに慣れるまでのこの時期が一番氣を使います。
さて、部活では毎朝、来ている生徒で8時から15分間掃除の時間をつくっています。始めた時は全員で色々なところを掃除していたのですが、そのうち徐々に上級生は掃除しなくなり、下級生にやらせるようになってきました。下級生はやらされている感が出てきて掃除の振りをしているだけになってきました。そのうち定期考査がはじまり、考査中は「朝、勉強するので掃除をしなくてもいいのではないか」という生徒自身の判断でしなくなりました。そして、定期考査後もそのまま掃除しなくてもいい雰囲気のままこの朝の掃除が風化してきていました。ごく普通に見られる流れですね。しかし、ここで怒ってしまっては部活の資質が飛躍することはありませんし、私のやり方でもないと思いました。 「掃除しなさい」と言ってやらせるのは簡単です。しかし、それだけで掃除の意味を悟るとは思えず、また「やらされる」ことから「やらない」を繰り返すのは目に見えていたので、朝、体育館を覗くたびにどうすればいいかを悩んでいました。まずやらせるのではなく、自分から掃除しなければと思い、体育教官室の掃除をしたり、あふれているゴミ箱のゴミを捨てたりと動いてみました。しかし、皆自分のことで一生懸命なのでしょう、なかなか気づけません。プロの場ならそれなりの対応が出来ますが、ここは学校。やはり何かきっかけを作り、話をしないとと思いました。少し我慢の限界が来たようにも思えてきたからです(我慢していたんですね〜知らず知らずにうちに)。 体育館の奥には倉庫がありますが、部室として使わせてもらっています。毎朝、掃除していれば綺麗に保たれているはずです。先日トレーニングでボールを使う時に倉庫に入ってみました・・・とてつもなく散らかっていました。いい機会だ!と「片付けなさい!」ではなく、「はいはい、掃除してあげるよ〜」と床に落ちているゴミ(?)を外に掻き出しました。 その後、終わりのミーティングで生徒を集め、掃除する意味を話しました。 身の回りを掃除することは心の掃除にもつながる。この世の中は人の心が具現化してできたものである。そこが散らかれば心は荒む。見えるところだけを綺麗にしても見えないところの(見えないように隠した)ゴミは常に潜在意識の中で罪悪感を生み続ける。見えるところはもちろん、見えないところを綺麗にすれば心の深い部分も洗われる。ゴミを散らかす行為には少なからず罪悪感が伴っているはず、その罪悪感はそのままでは解消されず積もりに積もっていつか表にどろどろと出てきてしまう。それが大事な試合のここぞという時に出てこないとは言い切れない。その普段の生活の中で積もっている心のゴミを掃除するのが、身の回りを綺麗に保つということである。しかも、それが最も効果的に発揮される時は独りでいる時、または皆の中にいる時でも自ら率先して動き出す時である。落ちているゴミは自分が捨てたものでもなくともそのゴミは「君が拾ってくれる」のを待っている。 「慎独」・・・独りでいる時に行動を慎む、独りの時ほど試されている。誰に試されているかと言うとそれは自分自身の良心にである(少し意味の使い方は違うかもしれませんが)。 少し話が飛躍し、生徒にとって簡単には理解しにくい内容となりましたが、私の伝えたい「欲」は少し解消されました(笑)。翌日、朝からトイレ掃除の音が。そっと覗いて「おはよう!」と声をかけました。「自分の心(意識)を変えてみようかな・・・」という行動が習慣化されていけばいいのにな〜と思う今日この頃です。 |
沈思黙考
週末には府総合大会がありました。中学生から実業団まで幅広い年齢層の大会です。今回は生徒が多くエントリーできたので大人や学生相手にどんな試合が出来るのか楽しみにしていました。一応...コーチという立場ですが、私自身も年齢別に出場していたのでコーチングや応援なども生徒に任せていました。面白いものでその方が一人一人が自主的にコーチングしたり応援したりと積極的に動くことができていたように思えます。少しだけ部活動の雰囲気が変わってきているのではないかと感じました。
初日のダブルスは10組のエントリーでしたがやはり学生や社会人のレシーブ力に耐えきれずどんどん負けていきます。攻めきれないともっと強く!と思ってしまうのか、強いアタック後のバランスが崩れているところを上手く切り返され、バランスが崩れたままのレシーブ体勢から出てしまう低い棒球レシーブを相手の前衛に押し込まれたり後衛から前方アタックされていました。そのような前傾体勢から「力を抜いて沈めて」...などは出来ません。早く触って奥まで返したい気持ちはわかるのですが、タイミングよく重力(体重)を上肢に、シャトルに伝えないと球はあまり強く打ち出せません。レシーブは少しの重心の沈み込みが出来るかどうかで大きく変わるのではないかと思っています。そんな中で2年生のエースダブルスは危うい試合を逆転勝ちしてからようやく力が発揮できてきて準優勝しました。さすがに実業団のペアには取りきられて負けましたが良いダブルスでした。私の年代別では...始めて組むペアだったので「集中力を切らさずに、次の瞬間にも勢いをつなげられるような内容に」をかけ声に最後まで走り抜けられました。9月のマスターズに代表として出場できるかもしれません。 次の日はシングルス。20人もの生徒のエントリーで、一つ一つ見れませんでしたが、ここでの集中力という意味では新一年生の活躍が目立ちました。初戦で油断する様が見られたので、少しだけコートサイドで話をしました。それがよかったのかどうかわかりませんが、その後は粘りに粘ってベスト4。2年生のエースにこそ負けましたが堂々たる結果です。結果は2年生が去年の覇者(実業団のOB)を破って見事優勝。ベスト4に2年生と1年生が入りました。高校生がベスト4に3人入ったのは今回が始めてです。各自の目標に確固たる覚悟ができていると後は見守ることが大切だな〜と感じました。素晴らしい!お見事!の一言です。私は年代別でミックスに出ていました。初戦で(心の)波に乗れずボロボロ(半分拗ねてた(笑))でしたが何とか開き直って勝ち進め、決勝は同じチームのペアと対戦。いいところまで行くものの最後はスピードを上げられ1ゲームを落とすと、2ゲーム目も同じような展開で最後に逃げられて負け。スピードを上げられ、ラリーのテンポが上がるとどうしてもそのリズムに乗っかって速い展開に持っていきたくなってしまう自分がいました。その結果、ペアの方へ押し込まれるという悪循環。相手がスピードを上げた時にこそ、それをはぐらかす緩さを作る余裕がなかったのが敗因でした。強に強ではバランスが崩れてしまっていたのでしょう。とても悔しかったです(ラケットを何本折ったか...心の中で)...。こういう気持ちがあるうちはまだまだ頑張れるな....と次の日反省しました。青臭い思考、仕草がまだまだゲーム中に沸き起こってきてました。当然の敗退です。いつも後になって反省します。言葉にする前の一瞬の間。これを感じないと他人も自分も傷つけてしまいます。沈思黙考を積み重ねます。 |
心を変えれば・・・人生が変わる
ゴールデンウィークはインターハイ予選の学校対抗戦とシングルスが行われました。2種目ともインターハイの出場が決まりました。シングルスは2年生の2人が決めました。次のダブルスは来月末と1ヶ月ほど離れているのですが3年生は最後の試合になることもあるのでなんとかモチベーションを上げて頑張ってほしいと思います。
クラブのあり方について外から見たり中から見たりしているといろいろ気付くことがあります。私はどちらかというと「いくぞぉ〜!!ついてこぉい!!」タイプではないので、生徒の幼い態度などにも長い目で見なければならないと感じています。とても辛抱がいる方法ですが自分の軸がぶれないように先哲の教えと色々な失敗から謙虚に学んでいかなければと思っています。本当にちょこちょこと失敗が多いので自分でも「何しとんねんっ!」と思うことがよくあります。たまにはすいすいと対策が浮かんで解決する時もありますが、思考が不安に押されて進められないこともあります(俗に言うテンパッタ状態)。悪天候ででめどの立たない問題がある時には自分でも「今日はヤバいな〜」という精神状態になることもあります。まさにそういう時に心の余裕がなくなり怒りをあらわにしてしまう対応もあり「猛反省」です。高校生の時に感じた「先生(という大人)にも理不尽なところがあるな〜」と感じたことを思い出しました。背伸びしたい自分もいますがまだまだです...。 さて、韓氏意拳では繰り返し「状態(そのもの)」が大切であると伝えらました。「状態」がないとどんな動きも不自然になる、つまり弱いということですが、その状態がいつもあるように(常態)動きを見ていくことが韓氏意拳ではないでしょうか、と後日、高橋佳三先生から教えていただきました。その状態があるかどうかを判断する大切なことは「いつでも足を上げられる体勢であること」です。これを意識していると椅子に座っていても立っていても「今」足を上げられるかどうかを意識してしまいます。 そういう意識をしていると腸腰筋への意識が自然と強くなり、コート上の動きもいくらかスムーズになっているものと思われます。椅子に座っている時もそういう体勢では腰が痛くなりません。しかし、油断すると肘をついたり背もたれにもたれかかっている状態になるんです・・・習慣とは恐ろしいものです・・・。 心を変えれば、態度が変わる。 態度が変われば、行動が変わる。 行動が変われば、習慣が変わる。 習慣が変われば、人格が変わる。 人格が変われば、運命が変わる。 運命が変われば、人生が変わる。 (ヒンズー教) 実践すべき言葉ですね。 |
韓氏意拳 その2
今回は韓氏意拳の創始者本家から韓競辰氏が来日されるということで、思い切って講習会に参加してきました。中国語での講習でしたが翻訳が入ったので少しばかりは理解できました。
さて、やはりこの拳法の考え方というのが、とても深いところで仏教とつながっていることがわかり興味もそそられました。自然界では数量化しません。それはかえって苦しみの原因になるのです。「無量仏」の考え方が大切です。手をこう動かそうとか考えることは動作に注目しているので不自然です。その中で最も大切なことで繰り返されていたのが、 「すべての動きは「常態」から始まる。これがないとどのような動きも不自然な動きとなる。」 です。「常態」とはどのような状態なのか。スポーツで言うと「レシーブ」のような感じだそうです。どこにいつ来るかわからない、そのような恐怖や不安でフッと身構えている状態。出来ているかどうかの判断方法は「足はいつでも上げることができる」というものでした。動作は千差万別変化するが、常態は一つ。この辺りは言葉で表現しにくいのかもしれません。 「虎は虎拳を練習しますか?」 この問いかけはすっと頭に入りました。昔の侍たちは街角でいつ切られるような状態になるかわかりません。つまり、襲われたからといって「ちょっと待って、準備運動させて」というような時間は与えられないのです。バドミントンにおいても「ちょっと待って、準備できていないから」というのは本来ではすでに負けているのです。 韓氏によるとやはり、今の世の中は生活が便利になり過ぎていて散漫になっています。したがって、動作を起こす前に緊張して、終わると緩む。それでは今の世の中では自然と言われるが、本当の自然界では不自然である。動物は緩めないし固まっていないのです。 「自然は圧倒的に強い。人間も本来持っている動物のような動きが出来れば強いのです。しかし、知識、思考が優先するこの世の中では自然な動きが出来なくなっています。」と仰りました。その訓練の秘訣として以下の2つを上げられました。 1.間違いを恐れない 間違いというのはまだそれ(常態)が存在していないので、行っていないのと同じ。したがって間違いはない。 2.正しい動作をしようとしてはならない もしそれが正しいと思ってしまうとそれを再現しようと頑張る。しかし、自然の行為は一つ一つ独立しているため再現できることは無い。再現したいと拘れば拘るほど不自然になる。自分が動かし、自分を信じること。ここに身体にゆだねる勇気が試されるということでした。 しかし、なかなか信じられないんですよね、考えなしには身体はそのように動かないんじゃないかという思考の習慣に囚われているために。 私も何度か直接手ほどきをうけましたが、今回はかなり開き直っていたのか、やろうとせず、ただ・・・・というように動いていました。どうせこの動きも一回切りだし・・・みたいに。そうすると「OK!」という言葉が。 今回は韓氏意拳を知るきっかけになった高橋佳三先生や導師の光岡英稔先生もこられていました。高橋先生は目の前で講習を受けられていたのでとても参考にさせていただきました。 この動きをバドミントン...なんて安易に考えていましたが、かなり壮大なスケールの修行だと知り、これからどうなっていくか見当もつきません。しかし、初心者である私の体験としては本当に良いものとなりました。 |
前後裁断
新学期が始まりました。この時期はいつも何かと忙しくなります。初対面の生徒、授業の準備、書類作成などなど本当にこの仕事量は!!といつも思ってしまいます。昼休みには20分程度の仮眠を取るのですが、なかなか取る時間が作れません。7時くらいにはもうウトウトとしてしまいます。夜の社会人の練習でも9時頃になると眠たくなって集中力が切れてきます。そのままの結果をなかなか受け入れられませんが、終わったことはしょうがないことです。
ふと、「諸行無常」を考えてみました。「すべてのものは移り行く。変わらないものはない。」ということですが、私の今のバドミントンのプレーは以前のいい状態を取り戻そう取り戻そうとしてもがいている状態です。「あったものを取り戻そう」つまり、欠けているところを補おうという思考ですが、もし結果が伴ってきくるとやはりそれに満足してしまい、本当に補えた(実際に補えたかどうかなんて判断できませんが)と勘違いしてしまうのかな?と思っています。 「勝つ」ことが出来ればそれで良いのか。そこに満足したいという自己がやはり心を大きく占めてきています。しかし、本当のところは「勝って」も満足は出来ていません。練習会でも皆、勝ったということよりも、「自分が満足いくプレーが出来ているか」に視点をおいて練習しています。しかし、勝ったという結果からそのプレーに少しずつ自信を付け加えていくことはあるのかもしれません。 「欠けているところを補う」・・・漠然としていてわかりにくいところですが、そう考えるよりも「これからの全く新しい自分に広がっていく、気付いていく」と考える方が、過去の自分のプレーに固執することなくのびのびと出来るような氣もしています。 <現成公案 第三節 前後裁断> 「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといえども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。(中略)冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといはぬなり」 (解釈) 薪が燃えて灰になるが、灰は薪の結果と思ってはならない。薪には薪のその時々の形態があり、灰には灰のその時々の形態がある。(中略)冬が春になるのではなく、冬は冬なりの、春は春なりの形態がある。それを人間は冬から連続して春に、そして夏になると思っているのが間違いである。冬と春の間に、はさみを入れ、春と夏の間にはさみを入れて、初めて春の実相が見えてくるのである。 つながるかどうかあまりわかりませんが、この「灰」の教えがふと頭をよぎっています。「前後裁断」・・・拘らず、新しい発見を! |