前後裁断
新学期が始まりました。この時期はいつも何かと忙しくなります。初対面の生徒、授業の準備、書類作成などなど本当にこの仕事量は!!といつも思ってしまいます。昼休みには20分程度の仮眠を取るのですが、なかなか取る時間が作れません。7時くらいにはもうウトウトとしてしまいます。夜の社会人の練習でも9時頃になると眠たくなって集中力が切れてきます。そのままの結果をなかなか受け入れられませんが、終わったことはしょうがないことです。
ふと、「諸行無常」を考えてみました。「すべてのものは移り行く。変わらないものはない。」ということですが、私の今のバドミントンのプレーは以前のいい状態を取り戻そう取り戻そうとしてもがいている状態です。「あったものを取り戻そう」つまり、欠けているところを補おうという思考ですが、もし結果が伴ってきくるとやはりそれに満足してしまい、本当に補えた(実際に補えたかどうかなんて判断できませんが)と勘違いしてしまうのかな?と思っています。 「勝つ」ことが出来ればそれで良いのか。そこに満足したいという自己がやはり心を大きく占めてきています。しかし、本当のところは「勝って」も満足は出来ていません。練習会でも皆、勝ったということよりも、「自分が満足いくプレーが出来ているか」に視点をおいて練習しています。しかし、勝ったという結果からそのプレーに少しずつ自信を付け加えていくことはあるのかもしれません。 「欠けているところを補う」・・・漠然としていてわかりにくいところですが、そう考えるよりも「これからの全く新しい自分に広がっていく、気付いていく」と考える方が、過去の自分のプレーに固執することなくのびのびと出来るような氣もしています。 <現成公案 第三節 前後裁断> 「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといえども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。(中略)冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといはぬなり」 (解釈) 薪が燃えて灰になるが、灰は薪の結果と思ってはならない。薪には薪のその時々の形態があり、灰には灰のその時々の形態がある。(中略)冬が春になるのではなく、冬は冬なりの、春は春なりの形態がある。それを人間は冬から連続して春に、そして夏になると思っているのが間違いである。冬と春の間に、はさみを入れ、春と夏の間にはさみを入れて、初めて春の実相が見えてくるのである。 つながるかどうかあまりわかりませんが、この「灰」の教えがふと頭をよぎっています。「前後裁断」・・・拘らず、新しい発見を! |
西洋と東洋
今週は全国有力校ランキング大会で滋賀県まで来ています。私は全国選抜前から全くシャトルに触れずかれこれ2種間、週末の自分の試合がどうなるのか逆に楽しみです(^^)。このランキング大会では同じようなレベルの選手と単複合わせて一日4試合入ります。待ち時間は長いのですが内容の濃い試合にしないともったいないという感じです。我が息子も参加しているので冷静な目と親の目が交錯してなんだかよくわからない状態です。一生懸命にシャトルを追っているのでそれを見ているだけで少し感動しています・・・。心の中で「がんばれ〜!!!」ですね。
さて、2日目が終わりまだまだ体力的には大丈夫といった感じですが、本当のところを言うと「体がきつくなってきました」という試合をもう少し重ねてほしいと思っています。インターハイでは団体戦が終わったところ、ここから個人戦が始まります。筋肉痛が出てきているような状態であと3日単、複と戦います。やはり目標が少し低いか・・・と感じてしまう結果でした。 先週末には高体連の会議がありました。その後の懇親会ではなんと、ある先生から高岡英夫氏の弟子である同僚の先生の動きを見せてもらう機会がありました。そんな身近に接することが出来たその先生が羨ましく感じましたがそのお弟子さんは異動とのこと。残念でなりません。 さっそく見せてもらった前屈とゆる運動を実践していますが、やはり頭でわかっていても全然出来ていない自分がいます。以前習った韓氏意拳も指摘されまくりの出来なささでした。頭でわかっていることと、実際に体験してみることとの差は本当に激しいと感じました。 そんな中、父から紹介された安岡正篤先生の「一日一語」から今は「人物を創る」という本を読んでいます。小学と大学についての本ですが、安岡正篤先生の東洋哲学を学ぶきっかけがかかれていました。その中には「西洋哲学を一生懸命に研究したがノイローゼの状態になる人が多かった。その中、東洋哲学の本を読むと心地よく、これであると感じた。西洋哲学は知識中心の学問であったが東洋哲学はそれに実践を加えた智慧の学問であった(大いに意訳しました・・申し訳ありません)」とありました。西洋哲学がダメではないのですが、私も以前、西洋哲学によるバドミントンの指導理論を学びましたが、やはりそこに少し違和感を覚えざるを得ませんでした。その中出会ったのが宮本武蔵の「五輪書」でした。東洋の、日本古来の哲学ともいうべき神道と仏教と儒教が混じったものでした。実践しないとやはりダメなのだと思いました。 身体からどう答えを受け取るか。今は感覚の鈍くなった身体から反応が返ってきているのかどうかもわかりません。しかし、続けるしかないと思っています。人生二度なし。求めなければと思っています。 |
和顔愛語
先週は全国選抜大会で福岡県に行っていました。学校対抗戦は残念ながら3位どまりでした。さすがのトップ2にはまだまだという感じが残りました。正確にコーナーに飛んでくるシャトルに徐々に体力を奪われ、受け待ちのプレーではやはり押し負けてしまいます。オーダーではダブルスを入れ替え、1-1に持っていきましたがこれもどうなのか終わったあとで悩みます。やはり負けを経験すると(自分の試合ならいいのですが)勝たせたい気持ちと、人としてどうあるべきかという気持ちと、それらの狭間で迷います。生徒たちは存分に実力を発揮しています。指導者とはどういう存在なのか、指導することに意味はあるのか、何を指導するのか。結果が伴わないと信念がぶれる自分に本当に腹立たしく感じます。
愚痴だらけになっていますが、試合会場にいるといつもそんな気持ちになってしまい、会場の隅の方で色々と考えてしまいます。 個人戦では試合を見ているとあ〜だこ〜だアラ探しをしてしまっています。できなかった理由を見つけるのはある程度簡単なのですが、できた理由をしっかりと見つめ、心に太陽をイメージして接していきたいと思いました。 「甘いな〜」ということはわかっています。でも父からの言葉「和顔愛語」はこの身がある限り気づいていなければならないと思っています。 |