何が選手のためか
ボランティア活動をされている人の話を聞きました。「ボランティア」という言葉に本当は抵抗を感じられているということですが、しょうがなくそうつけているそうです。
多くあるボランティア活動は毎年、同じところに支援を繰り返しています。しかしなぜ支援しているのに状況はよくならないのか。よくなる必要がないからです。支援し続けることが活動団体の生き残り方になっているからです。ある団体はボランティアと言いながらお金が動いています。ツアーを組んでマングローブを植えに行きますが、もうすでに前の団体が植え終えているとそれを抜いてまで植林するそうです。その現状を聞いて大変ショックでした。 指導の場面にもそのようなことがあるのではないかと思います。過剰な指導をすることで選手の自立を妨げ、結果が出ないと襲い掛かるようにさらなる指導を繰り返す。一時的に良くなればもっと良くするためにさらに加速する。結果、土壇場で自分で選択する決断に迷い敗退。しかし選手はその指導者のおかげで一時的にでも良くなった経験しているので結果が出ずとも感謝感謝。もちろん結果論であるので実力相応の結果であることもあります。しかし、問題はそのあとです。自分で選択してこなかったツケは社会人になって返ってきます。人間関係をうまく作れず退職してしまっている場合や、そのあと資格などを取ってキャリアアップを図る勇気もなく何をしていいのかわからない状態で迷っている人も多くいました。 「これではいけない」 教育の目的は生徒、選手の自立です。自己選択と責任感を経験させなければなりません。勝つことだけを考えた指導はただのビジネスです。実業団でプレーができている人は歳を重ねるごとにそれを学んでいきますが、プレーできないといきなり社会に放り出されます。それはあまりにも残酷で無責任すぎます。アメリカでは引退後にキャリアアップして弁護士など色々な職業に就く人が多いですし、フィンランドはその教育方法の改革で学力世界一になっています。選手のセカンドキャリアに向けてのシステム作りも大切ですが、引退後にさらなる飛躍を目指せる自立心を育むことが大切だと考えています。 〜終わり〜 |
練習内容
練習内容に関しても、
「これは意味があるのか」 「これは無駄ではないか」 と値踏みする生徒が多くいました。もちろんこちらは色々考えてやらそうとしているわけですが、個人レッスンではなく全体練習なので一人ひとり細かく対応できるわけがありません。ですので自分で練習を組ませようという試みを始めるようにしました。 みんなでやった方がモチベーションが続くトレーニングや、ベーシックな練習は全体で行い、後は30分区切りで数セットを各自や各グループで考えて練習を組み立てるよう指示しました。 ネットや楽な練習ばかりになるのではないかという心配もありましたが、実際にやらせてみると色々な工夫をしたり、グループ内にレベル差があるにもかかわらずモチベーションを高く保っているグループ練習がほとんどでした。そこに関わりたい人達は影響力を使う事が出来ないので不満そうに見えました。 何を練習すれば良いかわからない生徒にはどうしたいかを聞き、こうすれば?という話をしました。しかし経験者が多いため一通りの練習は知っています。あとは目的は何なのかを自分たちで考えないといけない事に少しずつ気づいていく姿は見ていて頼もしい限りでした。 「自分が教えて勝たせた」 指導者なら皆そう言いたいものです。そして勝てないと「お前のせい」。勝つ事が当たり前の伝統校ではそういう風潮も容認されます。また同じ相手でも勝ったり負けたりするのが今のラリーポイント制です。指導者も結果だけでは選ぶのが難しくなっています。そうなれば試合に出る権利を得るために選手は指導者に気に入られなければなりません。そうなると指導者によっては理不尽な要求があっても従わなければならなくなります。昨今の不祥事もこういった未熟な指導者の責任である事は間違いありません。オリンピックで金メダルを取りメディアも注目してくるのでこの辺りがこれからは一掃されるでしょうけれども。 〜続く〜 |
損得を離れる
どうすれば損得勘定から離れられるのか。
日本の「躾」にはその根本が含まれていました。森信三先生の著書には 挨拶 返事 靴の踵を揃える の3大躾が記されており、そのことだけでも実践できると一本筋の通った人間になる。ただ、こんなことであっても実践は大変難しいとのことでした。 体育館では監督になりながらもどうしようかずっと迷う自分がいました。話しをしても損得に流されてしまう選手が多く、その意味が理解できないと実践しないような選手も多かったからです。 一ヶ月くらい悩んだあげく、失敗を恐れてやらないよりもやって失敗する方がいいと強く心に決め、選手を集めてその話しをして、靴の踵を揃える、毎朝の掃除を躾としました。 なかなか踵は揃わないので、そういう時は何も言わず私が揃える日々が続きました。朝の掃除も後輩にやらせて自分は奥に隠れている選手もいました。しかしここで怒っても意味は無く、ただただ見守るようにしました。 〜続く〜 |
「欲」
さて、心の整え方について色々と試しながら試行錯誤していましたが、なんせ瞑想の効果なんてわかりません。「効果など求めてはいけない」と本には書かれてあるのでそうなんだと思いながらもやはり何かが欲しい....。川上哲治氏「坐禅入門」、オイゲン・ヘリゲル氏「弓と禅」、藤平信一氏「心を静める」、チョギャム・トゥルンパ氏「シャンバラ勇者の道」、山岡鉄舟「剣禅話」、天外伺朗氏「問題解決のための瞑想法」などなど他にもありますが大変勉強になりました。「動かしたい」という動きから離れる「韓氏意拳」を3度ほど体験させていただきましたが、意識を離れた中での強い形、動きというものが実際にあるということはとても勉強になりました。「欲」から離れないと動きは無駄が多くぎこちなくなるということがわかりました。
「欲」が出る瞬間はゲーム中に色々とあります。「決めたい!」「いいところを見せたい」「優位な立場にいたい」など誰でも思考したことがあると思います。このような「承認欲求」は誰でもあるのですが、幼少期から加熱する周りの期待と選手がどう付き合っていくかは難しい問題だと思います。早く上手くなりたい、何をしても勝ちたいという「欲」は突き詰めていくと「損得勘定」につながりやすく、如何に合理的に早く上達するか、無駄なことはしたくない、こんなに弱い相手と練習しても自分は強くなれない、と思うようになります。この頃からそう思っているような選手に気づけるようになってきました。 「ここに打っておけば勝てるのに!」「今のはここに打っておけ!」「入れるだけでいいのに!」 そういうアドバイスにはこちらの「欲」がべったりとついていることに気づきだすと、これはアドバイスではなく、ただの「欲の垂れ流し」のように思えてきて瞬間は「思った」としても口には出さなくなりました。そういう「欲」を増長させるような練習が色々なところで見られ、これは良くないなと思うようになってきました。中でも罰トレーニングがその典型で、決まって上位の選手が設定したがります。その方が盛り上がると言うのですが、完全に勝ち目のない選手にとってはほぼその罰トレーニングが決まっている...なかなか挑戦しなくなりました。団体戦では2〜3名の強力な選手がいればそれで勝ち上がれます。しかし、それではチーム力が上がらず応援する側も熱が入らず今ひとつな状態であるのがわかりました。全国大会ではコート上でレギュラーが頑張っているのですが、観客席では冷めた感じの応援が目立ち、勝っているうちはいいのですが負けだすと声が出ない...。まさに「今声を出してもどうせ1点でしょ?と」いう損得勘定が働いていました。損得勘定をいかに乗り越えさせるか..これが課題となっていく感じがしていました。 〜続く〜 |
禅との出会い
いろいろな本から学んでいくうちにあまりにも無知な自分と出会いました。ただ、選手からの質問に対しては不思議なくらいその時リアルタイムで読んでいる本からアドバイスできることが多く、この本とはそういう出会うタイミングなのかと思うようになりました。いろいろなことを頭の中で咀嚼しているうちに同志と呼べる人も現れ、これも大きな運命の出会いと感じるようになりました。森信三先生の言葉通りです。
人間は一生のうち逢うべき人(本)には必ず逢える しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時に 一期一会の出会いのチャンスに全精力で向き合うことができるか。その頃からいろいろな人との出会いに自分から逃げないように心がけるようになりました。それまではいろいろな場面から逃げることが多く、もしかするといろいろなチャンスを逃していた可能性がありました。もちろんその出会いに拘ることは無く、縁があればまた必ず会えると思っていましたのでできるだけ本音で接することを心がけました。 そうこうしているうちに全国大会で上位入賞している選手が入学してくる機会が多くなってきました。私はコーチの立場でしたが、周りから”優勝”の2文字が聞こえてきます。練習環境は6面から9面と増え、まさに日本一の環境といっても過言ではなくなりました。それでも...それでも....いくら遠征を重ねても、強い相手と練習試合をしても、きついトレーニングをしてもベスト4止まりでした。全国大会に出ても早い段階で負けてしまうと別顧問からの人でなし扱いの説教。そのフォローに1時間くらい涙ながらの話を聞いたこともあります。このままではいけない、伸び盛りの選手達の未来を邪魔させてはいけない、と強く思うようになりました。 では、他の学校の指導者達はどのような指導やアドバイスをしているのか。とても興味をもっていろいろな場面での指導風景を観察するようになりました。やたらと感情むき出しで怒る人、だらだらと長い説教、こうするべきだという断定的なアドバイス、気合いだ!頑張れ!というような具体性の無い言葉などがほとんどでした。いくら体力をつけても、テクニックを覚えたとしてもそれを使える心が未熟だと全力は出せません。皆、心の扱い方はわかっていなくて難しいところなんだなと思いました。そのあたりをどうすればいいかが私の課題となりました。 まずは自分の試合を振り返りながら、自分の心と向かい合うことから始めました。メディテーションと言われる「瞑想」との出会いでした。しかし、そのあたりを勉強していると周りからは違和感のある目で見られるようになりました。修行?坐禅?出家でもするの?という感じです。理論と数値化が主流となっていた指導者の方向性とは全く逆方向でしたので。 「それ、見えるの?」「意味あるの?」「合理的なの?」 という感じです。しかし、もはや自分の心との対決なので周りからどう言われようが関係ありません。あまりにも話が合わないので試合会場でも時間があれば離れたところで本を読んだりするようになりました。そのころは「禅へのいざない:鈴木俊隆著」をよく練習会場や試合会場で読んでいました。インターハイの宿舎や試合会場で瞑想していて驚かれたこともあります(笑)。沖縄インターハイで休憩時間に会場の学校のグランドでサッカー部の練習を横に瞑想したのはとても気持ちがよかったです。保護者の方がそれを見ていてその後いろいろと話をしました。考え方で共感できる保護者もいらっしゃいました。 〜続く〜 |