「氷をとかして水とする、水にとかし、すべてものものに融合していく」   『不動智神妙録』沢庵禅師

本心とは一つのところにとどまらず、身体全体に広がった心のことである。妄心とは、何かを思いつめて、一つに固まった心をいう。例えば本心は水のように流動している。それに反して妄心は氷のようなものである。  

プレーにおいて一つのことに拘ってしまうことは(例えばネットミスに対してもっと上手く打たないとと試合中にネットばかりに拘ったりなど)、全体のバランスが乱れ、相手との勝負に持ち込むことが出来ません。そのショットが鍵を握ることもありますが、視野を広げてラリーを組み立てることは結局、体がネットを上手く打ってくれるようになるものです。女子のホープ山口茜さんは、試合中のラリーを自分がコート上から見ているような感覚があると話されているそうです。将棋の羽生名人が仰る大局観もこれに通じるものがあるのではないでしょうか。
もちろん指導者も、氷のような心にならないように「常に心を水に」と自分の心を観察していかないと選手のプレーを邪魔しかねません。理論をいくら頭に詰めてもそれが氷になってしまっては通じません。宮本武蔵も「身体を水にせよ」と語っています。

 

 

「真剣にやるほど行きづまる — 窮而変変而通(窮じて変じ、変じて通ず)」   梶浦老師

一般には真剣にやれば必ずうまくいくと考えられています。しかし、そうではないということです。

真剣にやっていれば必ず行き詰まる。それでも一心になってやっていくと、ひょいと通じるものだ。通じないのは行き詰まる段階までいく真剣さが足りないということだ。いくらでも突き破れるはずなのに、努力が不足しているから本当の壁のように感じてしまうのだ。徹底してやれば、いくらでも抜け出すことが出来る。これに反して、真剣にやってもなおかつ破れない壁にぶち当たる。これが窮するということで、『一芸に秀でる者は百芸に通ず』という境地への関門なのである。

想念は必ず現実化するといわれていますし、それは一般には聞こえにくいですが科学者の間でも論議されているそうです。考えて考えて、悩んで悩んでする中から本当の越えるべき壁が見えてくるもかもしれません。そういう壁にぶち当たった時に「真剣に自分はやっているんだな」と自分を励ます考え方も大切なのではないでしょうか。

 

 

「冷暖自知」   禅語

人から“冷たいよ、暖かいよ”と言われても人それぞれに基準は違います。自分で体験せよということを勧めた言葉です。出来る出来ないはともかく、まずやってみること。人の先入観やその時の感情から発せられた言葉は当てにならないことが多いものです。真剣に話をしているとその言葉がどういった感情から生まれてきたのかが少しずつわかるようになってきます(もちろん自分が発する言葉の裏側は自分が一番わかっているはずなのですが、実はその感情に気づかないことも多いのでよくよく自分の感情は観察しなければなりませんが)。

そういう言葉に振り回されず、自分の信念の軸をぶらさず、何事も体験して触れてみることからしかわからないことも多いと思います。まずやってみる「即行」はその人の素直さも磨いてくれます。

 

 

「柳は緑、花は紅」   禅語

柳は青く、花は紅く、美しい春の眺めです。しかもそのままに真理が語られている。当たり前のことを、ありがたい事実と実感できるには、厳しい修行が必要です。  松原泰道老師

 

 

「眼横鼻直」   道元禅師

“眼は横に、鼻はたてに”の事実は、たった一人の、たった一度の人生の厳粛さを味わわなければだめです。

白石豊先生はこの言葉から自分がやれるだけのことをひたすらやってみようと決心されたそうです。私事に置き換えてみても、やはりコーチとしてもプレーヤーとしても結果から見るとまだまだです。しかし、一度きりの“有難い”人生、周りの目や結果に振り回されることなく精進せねばと思いました。

 

 

「行持道環」   道元禅師

仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して断絶せず。発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり

発心・・・やろうと思うこと

修行・・・練習

菩提・・・気づき

涅槃・・・勝敗にこだわらない(煩悩を滅する)=結果が出る

松下幸之助氏の講演会で「ダム式経営をしたいのは山々だがどうすればできるのか秘訣を教えてくれ」という質問に対して松下氏はじっと考えてから「わかりませんな」と答えた。そしてこう続けた。
「一つ確かなことは、まずダム式経営をしようと思うことです」
失笑が会場をおおった。「思うだけで出来たら世話はない」、「馬鹿にするんじゃない」そんな声も聞こえた。

発心、やろうと思うことがまず大切なのですね。思いは修行を継続させてくれます。その中で悩み苦しんでいくうちに気づく。そして欲を滅した境地、つまり、勝敗から意識が離れた時に自分本来の力が発揮できるということでしょうか。

しかし、その結果は本当の勝利ではないかもしれません。そこからまた発心し、新たな修行へと続いていくのです。そこには隙間がありません。

上達は普通の階段を上っていくようなものじゃなくて、らせん階段を登るようなものかもしれないよ。らせん階段を登っている人を真上から見ると、同じ場所をぐるぐる回っているように見えるじゃない。でも、横から見ると確実に高い所に到達しているんだよね。  白石豊

 

 

「技の狂いを喜べ」   金子明友

 

「不調こそ我が実力」   桜井章一

初心者の頃は上達も早く練習が楽しくてしょうがないということもあるでしょう。自分が上達していると実感出来ればそれは大きなモチベーションへとつながるのも事実です。しかし、上達している感じがない時、うまくいかない時はやる気が失せてしまうことも多いものです。上を目指せば目指すほど壁が出てくるものですが、そこにはフォームの改善が必要になってくることもあるでしょう。これは非常に勇気と根気がいる作業であり、結果が出ないことからもとに戻すことも多々起こります。元に戻せばやはりその壁を乗り越えることは出来ません。成果が伴わずもっとやる気が失せてしまいます。道元禅師は「発心百千万発」という言葉でこれを戒め、難度でも立ち上がることの大切さを説いています。

 

 

「自見得度先度他」(じみとくどせんどた)   禅語

菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり...無量劫(永久に)おこなひて、衆生をさきにわたして、みずからはつひにほとけにならず(自己満足の放棄)、ただし衆生をわたし、衆生を利益するもあり

普通は自分が出来てから、もっと勉強して経験を積んでから立派な指導が出来ると考えます。自分の技量を伸ばすことも大切ですが、道を得ていなくても他人をわたそうとする気持ちが大切です。白石豊先生はこの言葉でとても気持ちが楽になったと書かれてました。私も同感で、まずやってから、が、ちゃんと自分が出来てからにうつり、いつまでたっても心の奥底で眠らせている...そのうち忘れてしまうということも多くありました。

しかし、最近ではまさに今読んでいる本の内容を生徒との話の中に入れることが多くなってきました。出来ている出来ていない関わらず“これは!”と思う考え方はすぐに伝えるべきだと思ったからです。逆に考えると、この生徒に伝えるためにこの本との出会いがあったのではないかと思うことさえあります。

 

 

<参考文献>

「勝利する心」白石豊 サンガ新書

「宮本武蔵はなぜ強かったのか」高岡英夫 講談社

「沢庵 不動智神妙録」池田諭訳 徳間書店

「大局観」羽生善治 角川書店

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