高橋佳三先生から甲野善紀先生、光岡英稔先生、守伸二郎先生へのつながり
『「オリンピック選手に体罰」が行われる謎を解く 甲野善紀×小田嶋隆 アウトサイダー対談』
に体罰に関する対談が掲載されています。甲野善紀先生(勝手に呼ばせていただいてます)の著書や映像はよく拝見していたので興味深く読みました。
その中で「指導者の技が圧倒的であれば、体罰は必要ない」とありました。まさにその通りだと思います。しかし...実際のスポーツで年齢を重ねてもなお、現役選手を圧倒できるということはなかなか難しい問題です。白石豊先生も「自未得度先渡他(じみとくどせんどた)」と仰っているように自分が出来なくても伝えようという言葉もあります。もちろん自らの技術を向上させるための鍛錬は必要ですし、それなしでは指導者失格です。
そんな中で光岡英稔氏の名前が出てきました。著書で面白かったという「荒天の武学」内田樹・光岡英稔著という本を手に入れて読みました。そこで、光岡氏が導師である韓氏意拳を一度体験してみようと思ったわけです。たまたま強化練習会が中止になったため、申し込んでいた韓氏意拳の初級者講習会を体験してきました。
韓氏意拳
さて、会場に入ると皆「カンフーシューズ」。むむ!体育館シューズ は私だけか・・・と少しそこでビビってしまいました。守伸二郎先生が講師でした。後から調べてみると本業は呉服屋さんで「日本一強い呉服屋」と呼ばれているようです。穏やかな表情で韓氏意拳をいろいろな方向から説明していただきました。「こんな話は全くかけ離れているようですが・・・」と話されていましたが私には意外とその話がすっと入ってきました。先生の話では「ノートなどにメモを取ることも大切かもしれませんが、頭に入ることしか結局入りませんから・・・」とノートにメモる私たちに話されました。メモを取ることに必死で話のつながりに意識を向けられなかった私の行動に少し恥ずかしさを感じながら、ノートを取るよりも全力で話を聞こうとその時に気づきました。先生のシャツの背面には韓氏意拳の四大原則が書かれていました。「自然舒展」「一形一意」 「整体参与」「自然産生」の4つです。型を通して自分をどう見るかという光岡氏の言葉を反映したものだと思いました。
手を前後に動かしたり、上下、開閉させたりとよくある光景だなと感じながら真似てましたが、先生に腕をもたれたり誘導されたりしながら「そうそう!」と言われたりもしましたが、その時はそうなのだと感じましたが、次の動きになるとまたまた動かそうとしている自分が出てきて「・・・」という沈黙の指導。ことごとくいろんな動きの例を受けながら誘導されていきます。周りの人は「フーハオ!!」(おそらくすばらしいの意味かなと思います)という言葉で次から次へとクリア。次第に先生が私のところに来ることが怖くなっている自分がいました。また自分で動かしてしまって修正されるのかなと・・・。
そんな中でもう一 人全くの初心者の方もおられました。その人は「フーハオ!いいですね〜」と声をかけられていました。いろいろな価値判断からそうあるべきという常識とされ る固定観念から逃れられない自分の思考体系にすっかり嫌気がさし、一人シューズを履いているのを脱いで裸足でやってみることにしました。まだまだ「バドミントンやってますよ〜」という気持ちが少しあったのかもしれません...お恥ずかしい。
そこから、少し地面に立てている感覚になり、その時に安定している立ち方の指導がありました。背中を壁にもたれさすイメージで立て、腰骨はそんなに後ろにそらさない。股関節と肩関節の位置を調整すると感覚的には「何となく後ろに転けそうで不安定」というものでした。
しかし、身構えた時にはぽこっと押し倒されたにもかかわらず、同じように前から押されても横から押されてもお腹の辺りで何となく耐えられるようになってい ました。「不安定こそ安定するのです」この言葉がすっとお腹の方に入ってきた感じがしました。「不安定では身体が若干動いています。動いている方が安定するのです。安定の逆は不安定ではなく固定です。」この言葉には身体だけでなく思考も同じであると思いました。
身体を柔らかく使うことから心を柔らかくする。心や表情や言葉を柔らかくすることから身体を柔らかくする。
韓氏意拳に一歩踏み入れる準備ができたかどうかの卵の段階ですが、機会があればまた参加してみたいと思います。「練習は一人でするものです。間違っていたとしてもやめてはいけません。上手くいっているかなという感覚は実は脳が作り出している錯覚です。なんだかよくわからないけど続けていくうちに「それ」はでます。それは意識を通り越したものなのでつかむことは出来ません。次の機会にそれらの間違いは修正できます。またよければお越し下さい。」やや誇張して 表現していますがそのような話をされて講習会は終わりました。
次の機会があるかわかりませんが、練習は続けていきたいと思っています。 終わった後は「フーハオ!」って言われたかったな〜と思いましたが、言われていたらもしかするとモチベーションが下がっていたかも、これで良いんだと変な気持ちがおこり勘違いしてしまっていたかもとも思いました。
バドミントンというの狭い世界の中で、積み重ねてきたものを宝のように大切にしまい、徐々に頭の固くなっている自分がいました。運動にはもっともっと深い動かし方が存在し、パフォーマンスの決定に筋力トレーニングが大部分を占めるものではないことを頭に置き、これからももっともっと動きを観察していきたいと思います。
バドミントンの中に古武術の知恵を見る
バドミントンにいかにして古武術やその体さばきを取り入れるかを日々考えていますが、生徒たちはとりあえず目に見える「意味のある」練習を求めているのがあからさまに見えるのでメニューを組むのもなかなかストレスがかかります。私自身がプレーでこの動きをうまく再現できれば言うことは無いのですが、まだまだのような気がして伝える自信がないことに焦りを感じています。
パターン練習 はあくまでもその動きの本質をつかむための型稽古。そんなパターンは試合中にはほとんど起こりませんし、似たようなことが起こったとしても「起こった!」 と思っているうちに遅れを取ってしまって上手く対処できないのがオチです。その本質に触れるかどうかは各選手たちの意識にかかっているわけですがその本質というのも上手く言葉で伝えることは出来ないような気がしています(私自身、それを再現できないことも多々あるので)。
「体聲(タイセイ、タイショウ?)に従い動くこと、それ天意に従い生きることに等しく。ただし行えるか否かは私事なり。」光岡氏twitterより
まだまだ身体に聞いてみないことには始まらないような気がしています。
身体の感覚に敏感になるには過去の記憶やありもしない雑念に惑わされない集中力が必要です。座禅をしてみてもわかるように目をつむって座るだけでなのに凄まじい思考の連鎖が頭の中で繰り広げられます。この思考を客観視するにはやはり瞑想する訓練が必要なのです。
それがプレーに出て勝敗が目に見えて決まるということにはつながりにくいのですが、そのような集中力でもって練習したプレーはしっかりと身体に蓄積されていくのでしょう。言葉で伝えることは身体に残りません。光岡氏は「合気道の術理を哲学の用語で理解し、哲学の難所を武道的な身体知で乗り越える」と記されて います。この辺りがヒントになっているのではないかと考えている今日この頃です。