試合に勝ったり、負けたり。ショットが上手くいったり、ミスしたり。バドミントンに限らず、行動が起これば何らかの結果がついてきます。時には、 結果が目に写り(ミスショットが見え)、ミスから周りの落胆した声や自分で自分を叱咤する声が聞こえたり、体勢の悪い状態での失敗を体で感じたり、負けそ うな状態になると過去からの嫌な記憶がよみがえって不安になったり。
「○○ができないっ!!!!」(例えば相手のクロススマッシュがとれないなど)と、これからの結果も決めつけてしまうような心の叫びを一瞬にして呼び起こしてしまいます。本当は「○○ができなかった」という過去の一時の出来事だけなのですけど。
試合などでは、見る・聞く・感じる・考える(臭う、味わうはこの場合省きます)が常に起こります。それらのイ ンプットされた情報を記憶や概念を通して自分の都合のいいように理解する反応が始まります。そして、それらは「苦しい」「楽しい」「フツー」の3つに分類 され、「苦しい」からは反発したくなり、「楽しい」にしがみつき、「フツー」から逃げたくなります。これは人間の組み込まれた本能です。
バドミントンを俗っぽく(煩悩から)考えると、
「練習は苦しいからしたくない。でも、周りに認められたいから大会では優勝したい。ただし、簡単に勝てるような大会で優勝しても面白くない。」
とでもなるのでしょうか。
この、苦しみから反発する「怒り」、認められたい慢の「欲望」、退屈から逃れたい「迷い」は、煩悩の「三毒」と仏道では呼ばれています。
朝、30分ほど坐っていますと、不意にいろいろな映像が頭に湧いてきます。そして、知らぬうちに思考が進み、 とんでもない方向へストーリーを作ってしまっている事が多々あります。ふっと気付き“今”に戻ってきたとしても、また、フツーの状態から逃れたいのか不意 に全く関係のない映像が飛び出してきたりします。
心は放っておくと勝手に思考を始めてしまいます。それは、思考による「刺激」が欲しいためだからだそうです。 「苦しみ」も「楽しみ」も心を同じように刺激します。従って、「心」が生み出す思考は、言葉を操りながら“自分”が思考しているように思っていますが、実 はそう心に騙されているだけで、ほぼ反射の繰り返しなのだそうです。そこにはもはや「自分、自我」などは存在せず、ただ、単に外部からのインプットに本能 で反射しているだけなのです!!
「心」が勝手に生み出す思考に騙されないように、しっかりと自己のルールを設定し(戒)、一つの事へ集中し (定)、苦しみと楽しみを観察(慧)しなければならないと仏道は説きます。その先に、苦しい、楽しい、または退屈な、出来事に左右されない「平常心」が存 在します。これは、心のメンタルトレーニング。外部からのインプットに右往左往されず、心にコントロールされないことが、しなやかな生き方と申せるのかも しれません。
参考文献:小池龍之介氏著書
「自分から自由になる沈黙入門」「煩悩リセット稽古帳」「仏教対人心理学読本」
「もう、怒らない」「考えない練習」